omuさんのこわ〜い体験

2006年7月19日 (水)

絵日記はじめました

Ydhnatel 4月4日から書いていない「omuさんの怖〜い体験」
なぜ書かなかったかというと、怖いことを思い出して書いてたら怖いことがまた起きるようになったから・・・それで中断してました。
どんなことかって言うと・・・
この絵みたいなこと。夜中に目覚めてトイレに行って寝室に戻るとたんすの上に緑色の半透明のものがいる。目鼻立ちはわからないけど、人の形。プヨプヨしてるの。何にも言わないし、動かない。でも、確かにいるんだよね・・・怖くはなかった。多分守り神。ん?ちょっと待って?「守り神」ならトイレに行くときもついてきてくれなくちゃ。
そんなこんなで「本怖話」中止。
そして、今日、ふと思いついて写真に写せないような話題、おもしろかったこと、妄想・・・などを絵日記にしてみることに。絵が上手ってわけでもないけど、「下手でも味わいのある絵日記」めざして


第一回の話題は猫のおしりふき
Qq3ydgum  うどく「かあちゃん、何してんの?」
おむすび『これから鍼いくねん。鍼灸師の先生、若いやろ。おばさん臭いとかわいそうやし。銀イオン入り、サラサラパウダーシートで拭いてるねん』

Qbz3kmh2 そして数日後・・・
おむすび『あれ?おとうさんなにしてるの?』
うどく「これから散髪行くねん。僕も銀イオンしていくし」
ゆき「あれって、あちしのけつふきやがな。ええんかい」
おむすび『これって・・・ゆきのおしりふき・・・まあ、まだ使ってないやつやもんな。ええか・・・』

2006年4月 4日 (火)

護られている・・omuさんのこわ〜い体験その2

Fqqut4a2 だんごの葉=サルトリイバラ(山帰来)


わたしは、ふとした時に「ああ、誰かが私を護ってくれている」と感じることがよくあります。
たとえば、2004年の秋ごろ、頸肩腕症がだんだんひどくなり、始終肩や腕が痛み、車のハンドルもうまく切れなくなってきていました。職場にいく途中に左折してすぐ右折する交差点があるのですが、そこで、左折してすぐ腕が激しく痛み、ハンドルが切れないまま止まれなくなってしまいました。左側からくる大型トラックに激突する!と思ったとき、その手前にあるドラッグストアからバイクが出てきて、それに驚いたトラックがきゅっと止まってくれたのです。バイクが出てこなければ、多分トラックは私が止まるものと思ってそのままつっこんできたと思います。そうしたひやりとすることがあると、「ああ、誰かが護ってくれている」と思う私なのです。

そんな、恐いけど護られていると思った体験です。


今から10年ぐらい前のこと、わたしは4歳児を担当していた。
私の勤務する保育園では、5月になると、子ども達が「かしわもち」を作る。
かしわの葉は、このあたりではあまり手に入らないので、「だんごの葉」=さるとりいばらの葉を代用する。次の日のかしわもちづくりへの楽しい見通しを持つ事もねらって、だんごの葉も子ども達と採りにいく。

だんごの葉をさがす散歩にでた5月のある日のことだった。
4歳児20名あまりと保育者3名で山沿いに歩いて行った。だんごの葉をたくさん採って帰ろうとしたとき、ひとりの子が「先生、おしっこでる〜」と訴えてきた。
一番近い公衆トイレは山の上の墓地。私の実家の墓地でもあるので、勝手は知っている。
そこに子ども達を連れて行くことにした。
先頭に立って歩きながら、忙しさに墓参もせず、「3年ぶりくらいかなあ」と思っていた私。

墓地手前の駐車場で、ぞわっときた。
「あれ、お墓はいつも平気なのになんでいやな感じがするんやろ・・・」と思ったが、トイレのほうに連れて行った。
子ども達は一人がトイレに入ると僕も私もとみんな行きたがる。
先にすませた子らが端っこにある焼却場のほうに行こうとしていた。

そのとき、私はただぞわっと毛が逆立つだけでなく、耳のなかで「キンキンキン!」と高い調子の耳鳴りがして、「あかん!そっちに行ったらあかん!」と何かにせかされるように叫んでいた。
聞こえないのか、4,5人の子が焼却場に走っていってしまう。
「先生、他の子見といてや!」と相棒に声をかけ、あとを追った。
全身に鳥肌を立てながら、子どもらに追いつき、「そっちに行かないで!向こうに行こう!」と連れ戻してきた。
私が恐い顔をしているので、子ども達もびっくりしていた。

元のトイレ前に戻ってみると、5人ほどの子らと若い保育士が待っていた。
「ほかのみんなは?」と心配する私に、「あれ、どこに行ったんやろ?」と相棒。
「もう、ちゃんと全員把握しとかんと!」と怒りながらも探し回った。
すると、なんということか・・・

残りの10数人の子どもみんなが私の実家の墓石の前に集まり、石を積んだり、だんごの葉の上にお供え物のように小石をのせたりして遊んでいるではないか・・・

思わず、「おじいちゃん、おばあちゃん、護ってくれたんやね。ありがとう」と手を合わせていた。

そんなことがあって、ひと月ぐらいたった頃、新聞の地方欄を見て、血の気が引いた。
そこにはこう記されていたのだ。
「○○墓地の焼却場から人骨。死後2年くらいが経過しており、身元は不明」

せめて1年に一度墓参をしていれば、なにか不吉なものを感じて、子ども達を墓地につれていかなかったはずだ。

「これからはきちんとお墓まいりしよう」と思った私だった。


2006年3月31日 (金)

またまた新カテゴリー増築!

またつくってしまいました!その名もomuさんのこわ〜い体験coldsweats02bearing

わたしは子どものころから金縛りはもとより、
様々のこわ〜い体験をしてきました。

先日も夜中に奇妙なものを見ました。(それがなにかはまたご報告・・・)

そのときに、なぜか、もうそういう体験はしなくなりそうな予感がして、これはぜひ、今までの体験を覚えてるうちに書き残しておこうと思ったのです。

第1話を書き出したのは数日前なのですが、推敲をしていて遅くなりました。shock
だってほら、「道尾秀介」の叔母やし、文章がまずすぎるとあかんやろ、なあ〜sign02

すこし、長くなりますが読んでください。あ、出版関係の方、本にはしませんので、そこんとこ、よろしく。良く書けているからって禁・転載ですので、あしからずwink


第1話・・さむ〜い・・・
我が家のとなりにおじいさんがひとりで住んでいた。
私が物心ついた頃にはもう一人ぼっちだったし、
いったい何歳くらいなのか子どもの私にはまったくわからなかった。

私が10歳頃の秋、おじいさんは病気になった。
ひとり暮らしで病気になると食事のしたくにも困る。
母は自分ちの食事をつくるとき、おじいさんの分も作ってやっていた。
その食事を届けるのは私の役目だった。

私はその役目があまり好きではなかった。
なぜって、おじいさんの家はとっても古く、暗く、しめっぽくて
いつもいやな匂いがしたから。
夕飯を届けるときは特に嫌だった。
門から玄関口までも10メートル以上あり、
その間にも庭木や草が伸び放題になっていて、
夕暮れになるとなにもなくても気味が悪い。
おまけに家のなかは電気もつけずにいるからほとんど真っ暗なのだ。

もっていくにも、さげるにも便利なので、食事にはお弁当箱を使っていた。
一日に何回もいかなくてもいいように、2個のお弁当箱を用意してあって、
行ったときに前の食事の弁当箱をもって帰るようにしていた。

わたしはお弁当箱をさげて、いやいやおじいさんのうちに行く。
「おじいちゃん、ごはんもってきたで〜」
「なあ、おじいちゃん、ごはんやで〜」
「ああ・・・すまんけどここまでもってきてくれへんか」玄関わきの部屋に寝ているおじいさんが言う。
おじいさんの枕元から空になったお弁当箱をとり、代わりに中身の入ったほうを置いて帰る。

ある日、私は朝の食事を持っていった。すると、前日の夜の御飯がほとんど手付かずになっていた。
「おじいちゃん、御飯たべへんの?」
「う〜んちょっとしんどいんや・・・」
「あさごはん持ってきたけど・・・」
「そうか、もったいないさかいにな、あとで両方よばれるわ・・・」

家にもどり、お弁当ばこをもって帰らなかったことを母につげた。

「そんなら学校のかえり、おじいちゃんとこよって
どっちかひとつ持って帰ってきてや。お弁当箱ないと、夕御飯入れるものないし」
と母は言った。

学校の帰り、おじいちゃんのうちに寄った。
門を入ったときから、なにか感じがちがうなあと思っていたのだが・・・

玄関の引き戸をあけて、一歩中に入って・・・ぞわっときた。
体中の毛穴が開いてすべての毛が逆立つのを感じた。

そのころの私には、時々感じるこの感覚が何を意味するのかわからないでいたのだが。

「おじいちゃん・・・おじいちゃん・・・ねてるんか?」

「ああ・・・いつもきてくれておおきに・・・弁当食べられへんかったわ・・・
弁当箱そこにあるし・・・おおきにな・・・」

灰色に染まったようなささやき声を聞いて、
わたしは、「なんや、いたんか」とほっとした。
しかし、体中のうそ寒さに耐えがたく、弁当二つを抱えると、
「ばいばい!」とあわててかけだした。

家に帰って、母に弁当箱をわたした。
母は目に涙をためながら、「とうとう御飯も食べられんと・・・かわいそうに」とつぶやいた。

「かあちゃん、おかゆでもつくってあげたら?」というわたしに、母は淋しそうに
「なにつくったかて、もうおじいちゃんは食べられへんわ。死んだら人間、おしまいや」
と言う。
「え、なんで、おじいちゃんいたで」と驚いて言うわたしに、
「おじいちゃん、今日の昼見にいったら、もう息がなかったねん。いそいで京都にいる息子さんに
きてもろたんやけど、もう死んではった。息子さん、お葬式は京都でする、言うて、つれていかはったわ」
と母は告げた。

それなら、さっきの返事は誰がしたのだろう。わけがわからなかったが、
このことを考え続けるのがいやだったわたしは、もうなにも言わなかった。

夕御飯のときの父母の話から、おじいさんのなきがらは京都につれていかれ、そこで
お葬式をしてもらうことになったとわかった。

おじいさんと息子さんは仲が悪かったが、死んでしまってはけんかもできないな〜とわたしは思った。

2日たった夜、家族で夕飯を食べているとき、めずらしく父がうとうとと船をこぎだした。
「父ちゃん、こんなとこでいねむりしたら風邪引くよ」と母が言っても、起きようとしない。

太い腕を胸の前でくみ、頭をがくんとうつむけて、父は寝ていた。
と思ったら、いきなり目をあけて、

「おい!じいさんが寒い寒いって言うとるぞ、じいさんかえってきとるぞ!」と大声で言うのだ。

みんな、びっくりしてしまった。だって、おじいさんは死んだのだから。
しかし、父は頑固として聞かず、
「いいや、じいさんがさむがっとる。ふとんかけに行ったろう!」
と言う。父母ふたりで様子を見に行く、といったが、
私も兄も、妹も、父母のいない家にこどもだけで残るのがいやで、ついていくことにした。

月明かりのなか、懐中電灯を持つ父を先頭に、草の中を進む。
玄関の引き戸をあけると、またもや私の体中の毛がぞわっと逆立った。

先頭の父が、「何じゃこれ!」と叫んだ。
父の背中越しにそうっとみてみると・・・
なんと、座敷のまんなかに骨壷がひとつぽつんとあり、
線香も、灯明もなにもあげてないのだ。

しかも、骨壷のふたは開けっ放しになっていた。

「なんちゅうことや。死んだばかりの仏さんの骨をとむらいもせんとおきっぱなしにしやがって・・・」

父は骨壷のふたを閉め、風呂敷につつんで、お寺にもっていった。
そして、ねんごろにお経をあげてもらった。
四十九日の間、お寺に安置されて、
その後私たち家族の見守るなか、お墓のなかにいれてもらったのだった。

おじいさんはやっぱり私が学校に行っている間に死んだのだ。
そして、私に声だけで礼を言い、
死んでからも邪険にされた息子ではなく、夢の中に現れて、父に助けを求めてきたのだった。

わたしはそのときから、この世のものでない何か、説明のつかない事柄というものがあることを悟った。
そして、わたしがそういうことに出会うときには、体の毛がぞわっと逆立つ、
というサインがあることもそのとき初めて認識したのだった。